ドリリウム

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こんにちは。カタミチ(@katamichi2h)です。

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私の迷いに押し流された情けない決断

誰もが聞いたことがある大企業に勤めていた。

しかも、日本企業でなくヨーロッパの歴史ある企業だ。

大した能力もない専門学校卒の私が、そんな会社に入社できたのは奇妙な偶然のうえに成り立った幸運であり、実力でつかみ取ったものではなかった。ちなみに縁故の類ではない。

年収はそれほど高くはなかったが、平均は上回っていたし不満もなかった。

外資系企業と聞くと、それだけで海外水準の高い賃金を思い浮かべる人も多い。しかし、実際には各国の事情を考慮した「無難」な賃金水準に落ち着いているところが多いものだ。

特に、日本企業を買収したケースでは賃金水準が平均的な日本企業と大差ないことが多い。

 

一方で、賃金以外の待遇や福利厚生は海外水準であることが多く、私の勤めていた会社もそうだった。

 

会社にいつ来ても、いつ帰ってもいい。

いわゆるフレックスタイム制度というやつであるが、必ず勤務していなければいけない時間や諸々の制限はなかった。

 

服装は自由。

多くの人はビジネスカジュアルに落ち着くため、ネクタイをしている人や、シャツの裾をパンツに入れている人は珍しかった。派手な私服もいたし、特に外国人に関してはハーフパンツと派手なシャツというハワイ観光でもしているかのような恰好の人もいた。

 

いつでも休める。

特に申請をする必要はない。自分の仕事のスケジュールが空いていれば、スケジュール管理ソフトに「休み」と入れておけばいい。スケジュールも自身で調整すれば良いから事実上好きに休める。

 

家で仕事をしてもいい。

社内ネットワークやほぼすべてのシステムは社外からのアクセスに対応しており、セキュリティも万全だった。当初はハードウェアタイプの認証トークンが配布されていたが、後にスマートフォンに対応された。もちろん最新のスマートフォンが全社員に配布されていた。

私は天気の悪い日や体調がすぐれない日くらいしか利用していなかったが、特にそうした事由がなくとも使うことができた。

 

実力主義を目指しながらも、未だに学歴偏重が続くこの日本で、専門学校卒がこれだけの好条件をつかみ取ることは難しいだろう。

 

その好条件を捨てた私が代わりに得たものは、山奥の田舎で主夫をすることだった。

浅はかな「いつかは田舎に住みたい」願望

思えば私は小さいころから田舎が大好きだった。

母の実家は東北の山奥で、父の実家は北海道の辺鄙な町だった。

物心ついたころから、長期休暇には母の実家へ行って過ごしていた。

もちろん両親はそれだけ長い休みがないから、1人で東北新幹線に乗り、田舎のローカル線を乗り継いで、それでもまだ遠い道のりは手の空いた親戚の大人に迎えにきてもらっていた。

親戚筋はコメやら野菜やらを作っている農家ばかりだから、大抵いつでも時間を作って迎えにきてくれた。

 

それこそ、夏休みの間中の1カ月以上をそこで過ごしていた。

休みの終わりが近づくと、「帰りたくない」と泣いていた記憶がある。

 

親戚に同年代の子供たちが居り、一緒に遊んでいた。

目の前の山は獣道があって、恰好の遊び場だった。大人がいれば、車で海まで行った。

 

そんな習慣も、中学生になったころからなくなった。

部活の練習もあったし、段々と家族より友達に重きを置き始める年ごろだ。

それに、なぜかこのころから虫が大の苦手になってしまっていた。

 

そうして中学、高校、専門学校と経て就職をしたが、ずっと心には田舎で遊んだ楽しさ、輝かしさが残り続けていた。

一生都会で暮らすなんて絶対嫌だと、漠然と思い続けていた。

妻との出会い

そうして仕事を続けている時、妻と出会った。

出会ってすぐに相性の良さを感じた。

性格に違いはあったけど、価値観や品性、ものの考え方がちょうど同じくらいだったからだと思う。

 

知り合って1年と経たずに付き合いはじめ、更に2年と経たずに入籍した。

 

田舎に住みたいという思いは、妻も知っていた。

妻は反対することもなく、むしろ賛成だった。

お互いに自身の能力にある程度の自負があったし、語学もそれなりに自信があった。

元々住む場所にこだわりはなく、収入があって暮らしていけるなら山奥でも海外でもどこでも良いという考えだ。

 

妻も私も、共に自立していた。

相手にだけ負担をかけるような生き方はしたくないし、自分だけ楽をすることもしたくないと考えていた。

夫婦のお金の管理は各家庭によるだろうが、我が家の場合にはお互いの収入から月々一定の金額を生活費用の口座に入金し、それ以外は自由にしている。

 

つまり、田舎へ行くには二人分の働き口を探さなければいけない。

 

妻は少し特殊な仕事をしており、田舎でも仕事探しに苦労することがないばかりか、むしろ田舎の方が魅力的な職場が多い。

だから、まずは妻の働き口を見つけ、私はそこで就職活動をするという段取りになった。

小さな迷い

迷いはあった。

私の仕事は、あえて名前をつけるのであれば「ITコンサルタント」だった。

要するに「IT関連の困りごとを全部まとめてうまいこと解決します」という仕事だ。

 

会社は、大きくなればなるほど職務が細分化される。

当時私が勤めていた会社でも、世界中のITに関する要望はひとつのシステムで一元管理されていた。

それが私のもとに半自動的に配分されてくる。

日本の案件もあるし、海外の案件もあった。

ただ、基本的に要望の出どころは社内に限られていた。

 

こうした仕事は大企業でこそ成立するものであり、田舎でキャリアをそのまま活かした仕事に就くことは難しいだろうと予想していた。

プログラムの設計・開発をしていた時期もあり、個人的に開発を嗜好していたから、そうした道もありだと考えていた。

 

ただし、いずれにせよ条件が著しく下がることは覚悟しなければならなかった。

 

いつ来ても、いつ帰ってもいい。服装も自由。いつでも休める。

そんな環境に慣れきっていた私が、一般的な日本企業の働き方に馴染める自信が、あまりなかった。

そもそも就職先が見つかるかどうかもわからない。

 

田舎と言っても千差万別である。

北海道の大草原が広がるような場所もあるが、日本の田舎の大部分は居住可能な土地が少ないゆえに発展していない場所だ。

山と海に挟まれた限られた土地に、家々が密集している。

少しでも居住可能な土地が多い場所は、地方都市と呼ばれる程度の発展は遂げている。

 

地方都市であれば、仕事を見つける自信はあった。

しかし、それ以外の地域ではそもそも企業が少なく、その規模も小さいだろう。

就職先が見つからない心配はあった。

 

妻の仕事がどこで決まるかはわからない。

高知への移住

最終的に、移住先は高知県に決まった。

最後まで北海道が候補に残っており、北海道と高知県の2択であった。

私はどちらでもいいと言っていたが、高知県の方が仕事は見つけやすそうだと考えていた。それに、北海道では雪の心配も大きい。

 

どうやら高知県の方が条件が良かったようで、最終的に高知県に決定した。

 

それまで、高知県どころか四国に興味を持ったことすらなかった。

四国の4県の並びも知らないし、何があるかも想像がつかなかった。

4県の面積の比率が随分と偏っていることなんて、移住して随分経ってから知ったくらいだ。

 

そんななかで高知県について調べると、絶望的なデータばかりが集まる。

まずもって、人口が70万人しかいない。

ちょっとした市と同じくらいである。

県庁所在地であり最大の都市である高知市は30万人と、首都圏の基準で言えば名も知れぬ市と変わらない程度の人口しかない。

どうやら人口は下から3番目らしい。

 

先ほども説明したように、日本の田舎の典型的なパターンは居住可能な土地が少ないことだ。

高知県は典型的なこのパターンで、山地率がおどろきの89%である。

 

とにかく人が暮らしにくい場所だ。

まともな学校もないし、まともな学校を出なければならないほどの働き口もない。

向上心があれば県外へ出てしまう。

人口減少が続いている。

地震と津波による大きな被害が予想されている。

調べれば調べるほど移住先としては不適当な場所である。

税収も少なく、公共サービスの質も低いであろうことは想像に難くない。

 

もしかすると地方移住を考え、実際に行動していることが大きな「決断」かもしれないが、私と妻にその感覚はなかった。

案外簡単に見つかった働き口

高知県への移住が決まり、働き口を探し始めた。

一般的な転職サービスなどを利用したところ、すぐに働き口は見つかった。

最近はIT企業が地方拠点を作ることが少しだけ増えてきた。

大きな流れというほどではないが、「沖縄に開発拠点を作った」なんていう話は間々聞かれる。

 

高知県も、調べてみるといくつかのベンチャー企業や、従業員100人以下程度の小さなIT企業があることがわかった。

また、人材不足の傾向があることもわかった。

そのなかでも、遠方にいることを加味してSkype等を使った面接に対応してくれる企業に絞って就職活動を行った。

 

すると、すぐに採用が決まった。

Iターン・Uターンは僅かにあるものの、絶対的に人手不足であるらしい。

移住、そして変わらない仕事という現実

そうして準備が整い、長く務めた会社を辞めて、移住した。

移住後、しばらくは仕事が始まらない。

妻と二人、新しい家を整理整頓し、近所をぶらぶらと歩く。

外を見れば山が見える。少し歩けば海に出る。

お店は少ないが、暮らしていく分には困りそうにない。

 

とにかく移住できたことに舞い上がっていた。

妻と二人の時間がたっぷりあることも、歩いた先、出掛けた先がすべて新鮮であることも楽しくてしょうがなかった。

 

そうして2週間程度の自由な時間を経た、新しい職場での生活が始まった。

 

仕事はそれほど難しいものではなかった。

当たり前だが、入社間もない社員に急に難しい課題を渡してくるわけがない。

 

しかし、そんな仕事が嫌で嫌で堪らなくなってしまった。

なぜそれほど嫌なのか、全く論理的に説明ができない。

ただ嫌で嫌で堪らなかった。

 

人はみんな優しい、仕事も優しい。

望んだ形の生活が送れているはず。

 

それなのに耐えられないほど嫌になってしまった。

心が折れたように仕事も上の空で、仕事へ行く気力もなくなってしまった。

 

 

これまで、どれだけプレッシャーの大きな仕事にも耐えてきた、嫌で嫌で堪らなくても、そんな状態に陥ったことはなくて、自分が一番困惑した。

仕事中は上の空で、それでも仕事がこなせたのは入社間もなくて簡単な仕事が多かったせいだろう。

仕事に行く前や夜には嫌で涙が出る。

大の男が涙を堪えられない。

 

結局病院へも行かなかったから、原因はわからないけど、当時の気持ちや症状を後になって客観的に眺めてみると「燃え尽きて」しまっていたような気がする。

病院へ行けばうつ病と言われたかもしれない。

 

そんな日々を重ねるうちに、段々と考える力もなくなっていった。

 

 

移住する前は、「ITコンサルタント」のような仕事をしていたと言った。

コンサルティングというのは基本的に難易度の高いもので、関連するあらゆる人から責任を問われる立場だし、うまくすべての関係者との折衝をこなしつつ、確実に顧客の利益につなげなければいけない。

もちろん一言にコンサルティングと言っても、業界や担当する案件によって難易度は天と地ほど変わる。

しかし、私がいたチームは、私以外が経験豊富なベテランばかりだった。

更に言えば、社外から引き抜かれた優秀な人材ばかりだった。

よく言えば、私は評価されて、期待されて配属された。

普通は20代の若造がする仕事ではなかったわけだ。

 

それでも良くやっていた方だったと思う。

プレッシャーもストレスも強烈だったが、それなりにうまくこなしてきた自信がある。

 

しかし、そんな仕事をしてきた私が突然、山奥の中小企業に転職した。

ルールや仕事の作法は洗練されておらず、社員の考え方もそれに合ったスケールだった。

あえて言えば、このギャップに心が折れたのかもしれない。

あるいは、強いプレッシャーとストレスに晒され続けた私が、夢の地方移住を終えて、2週間ほどの無職期間を楽しく幸せに過ごし過ぎたせいだったのかもしれない。

退職、主夫へ転職

そんな状態になって、仕事が続けられるわけがなかった。

試用期間の、早いうちにやめる方が双方に被害が少ないことはわかりきっていた。

あまり何かを考える元気はなかったが、妻からの強い後押しで退職を決意した。

 

決断というにはお粗末で情けないものだったと思う。

完全に迷いに力を削ぎ落されて、押し流された末の結果でしかなかった。

 

会社から理由を問われても、はっきりと答えることができないことが辛く申し訳がなかった。

 

まずはしばらく休むことにした。

妻からもそう言われたし、私自身も少し休めば回復すると思った。

 

私はいくらかの貯えがあったから、生活を続けていくことはそれほど難しくなかった。

元々、移住後は1年か2年か、とにかくしばらく遊んで暮らしても良いと考えていたほどだ。

 

それでも仕事をしていない負い目はあったから、家事は頑張った。

元々器用な方で、家事はうまくできたし、苦労することもなかった。料理は元から出来た。

 

移住前は、よく出前や外食をしていた。

しかし、高知県では出前や外食がほとんどできない。(移住前はピザの宅配をよく利用していたが、高知県では県庁所在地の高知市であっても、ピザーラやピザハット、ドミノピザといった主要なピザの宅配サービスが存在しない)

だから、コンビニで買うことが多かったのだが、コンビニも夜になると棚がスカスカでほとんど選択肢がない。

 

元々私の料理は好評だったから、それが毎日食べられるということで妻は喜んだ。

家も綺麗だし、しばらく経ってからは弁当も用意し始めた。

 

主夫として1カ月ほど過ごしたころ、妻からはずっとこのままでも良いと言われた。

 

妻の仕事は不規則で、私が週休2日の一般的に勤めていると休みが合わない。

家に帰っても誰もいないし、休みでも一人ということが珍しくない。

私たち夫婦はとにかく仲が良いから、これは寂しいことだった。

 

決断

私達夫婦の理想的な形を想像すると、夫婦の考えは一致する。

私はいつも家にいて、妻を支える。

とはいえ、家事だけでは妻へばかり負担を強いることになるので、家でできる仕事をする。

 

これまで特に説明しなかったが、私は頭痛持ちで、その症状は就業に差し支えが出るほどに重い。

何の自慢にもならないが、緊急搬送を何度も経験していると言えば多少は重さが伝わると思う。

妻が私に退職を促した要因のひとつはこれだと思うし、だからこそ妻も私が自宅で仕事をできる方が良いと考えてくれている。

 

自宅で出来る仕事と言えば、まず第一にこのブログである。

そして、開発経験を活かしたWebアプリやシステムの構築も良いだろう。

少なくともこの当時は全く手探りであったものの、個人でささやかに事業を営んでいこうと決意した。

 

当時は深刻だったが、思い返せば怠惰で余裕のある意思の弱い決断だと思う。

それでも、これが私の最大の決断である。

 

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